山中 学さんを知っていますか?

銀座ヴァニラ画廊の田口さんから「山本学」という写真家を知っているかと聞かれた。全く知らないかったが・・・ネットで開いてびっくり!!
そこには六つのタイトルがあった。ぜひ見て欲しい。
すごい写真家がいた!!下記はそのコピーです。

「童子」の写真のコピー・・・・
自分を変えさせてくれる何かにすがりたいという気持ちがあるのに、それをどうすれば
いいのかわからない。そこで、水も電気なく、何千年前のような貧しく苦しい生活を
しているだろうと思われる場所に滞在し、考えてみることにした。

雨、風、の入る家の土の上に寝て、水の補給が困難で泥水と粗末な食事をとり、病気に
なっても病院や薬はなし、ここに住む人達の大半はここで一生を終えるという。
この世界から外へは出る事はとても難しく、毎日が耐え難く苦しいものに思えた。

彼等と私とは何が違うのだろう? 
多くの兄弟を持っている、しかし、半分は成人しないで死んでいく。
死への恐怖はない、また、生の執着もなく、単調な生活が毎日続くだけだ。
彼等は生まれたことに後悔していないのか?
自分のカラダ以外には何もない現実、満たされることのない生活。
苦しみのない永遠の場所に行きたいと願い、ひたすら、生きている。
そんな彼等が私をどのように見ているのだろうか?
私(山中学)は何であったのか?

特に心を奪われたのは泥と垢とにまみれ、傷だらけになりながらも、たくましく生きている。
それは決して哀れでみじめな姿ではなく、恐ろしく澄んだ眼をしている子供達の姿だった。
それはまさに、善財童子の化身に思えた。

「無空茫々然」の写真のコピー・・・・
すべての命は祝福されて生まれてくる訳ではない、産声をあげることのない
小さな身体はわずかな時間の中で最後の美しい姿を私に残してくれた

「羯諦」の写真コピー・・・・

 「阿羅漢」「不浄観」と作品の制作を終え、次のテ-マを色々と模索していた。

 頭の中にあるのは仏教でいう所の四苦、つまり「生老病死」の「老い」、または「病」を写真にしたかった。

 しかし、「病」というテ-マは病人の姿や様子を写し出した所で、仏教でいう所の「病」ではない。単なる目に写った真実の表面だけではないのか。仏教でいう所の「病」というのは人間が持っている業による苦である。これを写すだけでは、私の考えている写真にはならない様に思えた。

「老い」というテ-マでも同じ事だった。老人の老いぼれた姿や生活の様子を撮るだけでは次の写真のテ-マには遠い気がした。

 ある時、友人との会話の中で老人のヌ-ドという言葉が出た。これだと思った。「老い」とは老人の肉体を複写するだけでよかったのである。あとは老人を探しさえすれば良いのだから半分以上はできたのも同然だった。

 それから何十人かの老人のヌ-ドを撮った。セレクトすると、残ったのは九十歳ぐらいの女性の写真ばかりになったが、確実に写し撮れたのは「物としての人間が、消えゆく前の最後の肉体」だったと思う。

「不浄観」の写真コピー・・・・

「死」というものを実感として受け止めることができないものかと考え、試みに、犬の死骸を海岸で見続けることにした。

 一日目、この犬の一生は幸せだったのかと頭を撫でて思った。
 二日目、犬の顔が悲しそうに見えてきた。少し臭いも強くなったようだ。
 五日目、死んだ場所にカラスが沢山集まって柔らかい眼や肛門を喰っていた。
 七日目、体が膨張し血液や膿が流れ、ハエが沢山とまり臭いも著しくなった。
 十日目、口の中に蛆がわき、体も二倍に膨れ上がっていた。
     手で触ると温かいまた体に熱がもどってきたのだと感動し思わず手をあわせた。
十二日目、腹の皮が破れ蛆がいっぱいに詰まっているのが見えた。
     熱は蛆と蛆の摩擦によるものとわかりがっかりし、死は醜く、哀れなものだと思った。
十五日目、顔の皮も破れ骨が見え、体も薄くミイラの様になり、臭いも少なくなった。
     死骸が埴輪の様に美しく見え、これを写真に撮った。
二四日目、蛆もいなくなり、頭、足、体もバラバラになり、もうどんな生物も、
     これを喰うことはないだろう。その時、この犬が始めて死を迎えたような気がした。
三二日目、小さな白い骨だけになり、土の中へ吸い込まれていくような気がした。
四九日目、死んでいる場所には新しい草が繁り、犬の存在は消滅した。

「阿羅漢」の写真のコピー・・・・

ある朝、全身に醜い布を巻き、悪臭を放ちながら、ゆっくりとした足取りで歩く人に出会った。

 焦点があっていない眼で遠くを見つめていた。

 早朝に自転車で出発し、繁華街や公園を探し彼らを見つけ出し「写真を撮らせてください」と声をかけた。
しかし、容易に撮らせてくれない。嫌がって逃げてしまう。またお願いする。
唾をかけられても、殴られても離れないでいる、とうとう諦めた時に、二・三枚の写真を撮らせていただいた。

二日間も一緒にいて、やっと撮影できた人
毎日何十キロも歩き続けている人
寝床や着る物を一切持たない人
ひたすら何かを唱え続けている人
全身をビニ-ルで包んだ人
髪の毛が粘土のように固まっている人
話すことも聞くこともできない人
顔が醜く腫れてしまった人
一日中、寝続けている人
栄養不足で足を引きずっている人

 四年間で撮影した人は数百人にもなるが、その中で確かに仏と人間の間にいる人のような輝きをもつ人を十六人選んだ。

 まさに、あらゆる煩悩を断ち、修行する「阿羅漢」と呼ぶに相応しい人たちであると思っている。

以上のほかコピーがない「浄土」の写真と、山中学さんのプロフィールがあります。

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