「農」でワークシェアリング
渋谷の洒落たレストランがガラガラ空きだった。きっと思いをかけ、金をかけ時間をかけて作り上げ、食器食材シェフを待機してお客を待っているのだろうにに「来ない」。いまレストランは過剰なほどあるから、その中で競争し勝ち残るなどと決心したら「闇雲」の努力が必要だ。「美味しく体に良い食事をだして喜んでもらう」ことからほど遠い作業で消耗する人が多いのではなかろうか?ともかく大変そうだ。大手外食チェーンは大量直接仕入れで店舗も食材も人手もコストをさげ「本当は美味しくない」けど「ちょこっと見た目、口当たり良さげ」な「商品」を撒き散らしている。ヘタリ切るほど懸命に頑張る従業員とマニュアル仕込みの挨拶に乗せて。
「食」は宙吊り状態にある。食べさせたい「食」と食べてはけない「食」
の間で、企業は、競争に勝つために売れるものを目指す。企業化された「食」は儲かる方向へ進むのが本業だ。生命が必要としている食と似て非なる「食もどき」へ向かっていってしまう。生命は、自然のリズムにそった、もっと美味くて温かい、体に馴染み、安心感を覚えるリズムの「食環境」求めている。
それをもっと楽に楽しみながらできる方法を考えてみよう。!
気候、政情、地形に恵まれなくて、食えない国、民族がたくさんいるのに日本は総てに恵まれている。家庭菜園を作ろうとすればできる環境にある。農家は今でもやっているし、昭和30年代までは都内でも庭に自家用畑を持っていた。生命の元の食を企業にだけゆだねるのはおかしいし危険だ。自分達の手で作ってみよう。—やれる人から。
人はサラリーマンや職人だけやるのではなく「楽農」を兼ねることが良い事だと思う。
法隆寺の職人たちは仕事の無いときは野良仕事をしていたそうだ。兼業職人だ。地方都市では自家用菜園を持っている家は多い。われわれも、これを見習った方が良い。仕事のある無しで振りまわされっぱなしでは無く、自然とも共に生きる在りかただ。今風に言えばワークシェアリングと言ったところだ。会社からの給料が減っても、食い物の一部を自分達でまかなえれば、すごく自信がつくし、商業主義に振り回される事と違う充実した暮らしも持てる。国土の7%の田圃のうち38%の96万khaが休耕田だそうだ。それの一部を活用すれば「食」も「暮らし」も豊かになるはずだ。そのうち農地を無駄に遊ばさず、誰にでも、やりたい人にやらしてくれるようになるだろう。
レストランでも日頃は食材を作り、予約がはいった時のみ店を開けるこころがあっても良いのではと思う。
思えば
昨年亡くなった藤本敏夫さんともこんな話をしていた。彼の「農的幸福論」が出版されている。とても解りやすいので一読下さい。