欲望・記憶の涯
2002年12月9日
記憶には得意不得意がある?
「やってあげたのに」「あんなに尽くしてあげたのに」「サービスしてあげたのに」と、したほうは忘れずに良く覚えているが、してもらったほうは、ほとんど忘れている。その比率は97対3ぐらいじゃないだろうか。「施す」ほうが「施される」より幸せと言うインドの考えは正しいのだと解る。
逆に、苦しみの記憶と幸せの記憶だとその残像は90対10の留まり方か。不景気感と好況感では80対20と言ったところか。
この感情ギャプの蠢(うごめき)は、
エネルギーになって社会を突き動かしている。「もっとして欲しい」「もっと幸せが欲しい」「景気がもっと良くなって欲しい」⇒「欲望」は生きる根源力といえる。記憶は欲望に従っているのかもしれない。
もしかしたら?きっと? とっても充分過ぎる時代なのに、我々は
なんの因果で「もっともっと」と欲望を膨らまし続けるのか?ともかく過剰なことはたしかだ。だからと言って止まりそうにも無い。
「もう充分!もうこれ以上は結構!」と感じたら記憶と欲望はヒフティーに近いバランスになるのか?? なるかもしれない。しかしそれは個々の衰弱と死の直前の表情だ。あるいは、ほんの一瞬の「悟り」だろう。行きつく所まで行くしかない! 行きつく処はワカラナイ。
自然とか地球や宇宙の大きな波,リズムがそのように出来ているのだから受け入れるしかない。
生命も存在する全てもフラクタル(同型)に出来ているのだから。
なにか、ありがたいような寂しいような運命だ。
般若波羅蜜多心経
おん。あぼきや。べいろしやのう。まかぼだら。まに。はんどば。じんばら。はりばりたや。うん。 合掌