三木成夫

三木成夫「ヒトのからだ」を読み、あらためて気づかせてもらったこと

三木さんは書いている・・・
*じぶんの〈からだ〉のなかで食べ物を合成して、生成し、自足している植物。じぶんの〈からだ〉を動かし、感覚の器官を動員して、自分の〈からだ〉の外に食料をもとめる動物や〈ヒト〉
*「動物とは、植物性器官に目と手足がついたもの」
「動物性器官(感覚・神経・運動の器官)が植物性器官(心情・栄養・生殖の器官)をしだいに支配するようになる」
*「生の中心が、心臓からしだいに脳へ移行していくという出来事であって、このことは、心情の機能が、しだいに精神のそれによって凌駕されつつある人類の歴史(の必然)・・(三木茂夫「ヒトのからだ」)

僕は、思った、考えた、納得した・・・
*樹木はシベリヤの極寒にあっても赤道直下にあっても生まれた場所を移動せず、成長し、自然の摂理であるように、もくもくと生を全うする。山野の草木にやすらぎを感じる・・花や野菜作りに憧れる・・
園芸ブーム、自然探索に惹かれるのは自らにある植物的心情への憧れのあらわれと言える。
*「高度資本主義」が管理社会に驀進し、生命や心情が、すみっこに追いやられるのは、ヒトの生命発生史に起因する。
*すべてのヒトの根底に通ずる「生命や心情」が、管理社会と折り合いをつけること・・を探りたい!
*「生きる現場」が、どんどんと、「体やこころ」から離れて、管理強化や搾取戦争の方向へと進行する」・・のはヒトの発生の宿命なのか!・・近代化とは、ヒト社会を「頭でっかち」「金中心」「ルール強化」へ進むこと。
*「食・生殖=生命本体」がつかさどる「心情」と「感覚・運動=社会の制度」がつかさどる「頭脳」は、互いに関係し協調と反目を繰り返す。それを「ひとつなるもの」として生きざるをえない苦悩。

近代化・工業化はヒト社会の終幕!?
*日経平成21年8月12日夕刊トップ記事
「企業の監査費用急増」・・・「内部統制」義務化で・・・
*わずか30年前、「大工の稼ぎ」は、サラリーマンの「工事監督や設計士給料」の倍だった。それが今はサラリーマンのほうが、ずっと高く安定している。
アネハ事件では、「改善のために」管理を強化する制度をつくり、手続きの煩雑化と、で対応した。「屋上屋を重ねる」というやつだ。現場や人間力を育成し、評価していくとりくみが大事なのに・・・官僚は自己防衛し、頭脳で解決しようとする。
ひとつの工事に・・職人ひとり、監督、営業、管理者と・・直接手を下さない者の方が多い現場が増える。工事の結果は、現場の出来より、写真や報告書が優先する。
「現場任せ」が理想の姿であるとところに立脚したほうが、「いいものが安く」できるし、自由と工夫が生まれるはずだ。
トラブルの都度、官僚天下り、金融関係や不動産業者が肥大化し現場は弱体化する。・・・そんなことだらけ!

以前、僕は思っていたんだが・・
*一万年前の縄文?に遡れば、今のような窮屈で不合理な制度もない。皇室も金融資本も出生による貧富もない。宗教、芸術、しきたり、ご都合主義的な常識・・・も存在しない・・・と考えてきた・・
神棚、仏壇、結婚式、葬式、法事などは不要!・・と考え、感じてきた。
でも・・・・それで・・「こころと精神」の折り合いをつけて、しのいできた個人や集団の歴史の大きさがあるのだ・・・と考えなおしてみる。
自然に振る舞えて、受け入れられる風習がわれわれを覆い尽くす。
その役割に一度脱帽してみよう!

「三木さんの最後の〆ことば」に合掌!・・
「精神の働きが、その本来のすがたにとどまったとき、そこには人類にしか見られない理知的な性能が現われ、心情と見事な調和を保つ」「しかしいまこの歴史をふり返ってみると、人々は、この精神を使い過ぎることによって、・・ついには・・見事な調和が、しだいしだいにくずれ去って・・」

「人類の精神史、特に東洋のそれは、じつは、このような精神の跳梁に対するわれとわが身の争い、つまり“自己とのたたかい”の記録にことごとく色どられたといっても過言ではない。かれらははじめ、この問題をとくために、樹下石上で考えることに徹した〈禅観〉。次いで、際限のないおのれの煩悩に気づいたとき、ついには、この門戸となる感覚の働きを、がんじがらめにしばりつけるというひとつの非常手段に出た(ヨガ:しばるという意味)。・・それは動物的な過程を、動物的な働きでおさえつけるという最後の手段ともみるべきもので、いわば、自分のからだを自分のもち上げようとすることにもたとえられようか。我執のもつ底知れぬ深さを思い知らされようとするものである。」

「人々のだれしもがいだく、植物的なものへの自然のあこがれは、このようにして動物的なものに対するある絶望からうまれで出たものと思われてくる。・・」
「古生代の昔に発生した原始の無脊椎動物は、生涯のはじめを動物として過ごし、やがて変態の後、大地にしっかりと腰をすえ、触手を伸ばして、その場の獲物だけにたよりながら、いわば植物としての生活に帰り、そこで子どもを増やすという。  これにくらべ、このような植物に帰りきれずに動物のまま一生をすごすようになったのが脊椎動物のそもそものはじまりであるという。つまり、われわれ人間も・・動物であることから一生涯逃れることができなかった。」
・・・・・・蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな・・・・

(・・我々は、そのようなものとして、生まれ、生殖し、死んでいく波のなかにいる・・と実感します・・)

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